ふと思う。最近日本共産党の党名がもはや時代にそぐわないという話が流れてきたのだが、それで言うと新左翼以降のワードである「市民」も時代遅れではあるまいか。というか、長らく中道保守を自認していた自分としては、ぶっちゃけ「市民」とか言われるとケッと思ってしまわないでもない。恐らく、マジョリティ内で自分が疎外されていると考えている層、選挙に行かない層、jpでシモネタかましている層、は、自分たちを「市民」だとは思っていない。そして彼らこそがこれからの日本の趨勢を決めるのだ。好むと好まざるに関わらず。さきの首相暗殺未遂の容疑者も正にこの層に属していた。世を動かすのは彼らの「リビドー」なのだ。ネットがこの主体なき欲望を加速させているのは言うまでもない。
政党名に話を戻すと、共産、社民、自民、立民、民民と、オールドな党は、綱領ないし「民」という固定した主体を名に据えている。一方維新、れいわ、参政の名には主体となる「民」もなければ達成すべき未来もない。それらのネーミングのセンスは時宜に適っていると言えよう。
我々は既に「民」ではなく、もっと捉え所なく流動的で不気味な「何か」だ。